2009年4月22日水曜日

「知る」ことと「身につく」こととの間にあるギャップ

先日KDIは、米国KM(ナレッジ・マネジメント)界のグルといってよいでしょう、
ラリー・プルサック氏をお迎えしてのナレッジ交流会を開催しました。

天性のストーリーテラーらしく、大変示唆に富む、様々な話題を提供していただきましたが、その中から一つ、「情報と知識」について、私なりに気付きがありましたので、紹介いたします。

ラリーの話を抜粋して箇条書き:

1.近年、情報を入手(獲得)するためのトランザクション・コストは著しく低下した。そして、それによって今度は、知識を獲得するためのコストの高さが際立つようになった
2.知識とは、学ぶもの、身につけるもの、極めるもの、マスターするものであり、経験×参加×内省が必要である

いかがでしょうか?
1の前半は、比較的実感が伴うので分かりやすいのではないでしょうか。
たとえば、「1913年にノーベル平和賞を受賞したのは誰か?」という問いに対する答えを得るのにどれぐらいの時間がかかるか?それなりの情報リテラシーを持つ人であれば、10秒もあれば答えを導けます。ググるという表現が適切かもしれません。
でも20年前であれば、そうはいかなかった。家にある百科事典を調べたり、それがなければ図書館に出かけて行き、司書さんに、どういう本を調べれば分かりそうかを尋ねたりする必要がありました。そう、すくなくとも1時間〜3時間程度の時間がかかったはずです。インターネットの爆発的な普及と技術の進化によって、情報獲得のトランザクション・コストは飛躍的に低下しました。

つまり、世界中の誰もがほとんど同時に、同じ情報を入手できるようになってきたわけです。商売の世界も同様で、昔は情報の非対称性(つまり、自分は持っている情報を相手が持っていないという状態)を巧みに利用して、「儲けて」いた人がたくさんいたわけですが、現代はそれほど安易にはできなくなっています。これが現代の事実ですね。そうなると、差をもたらすものは何かというと、「知識」ということになるわけです。

ラリーは次のような例示を加えました。

日本についての情報を得ようと思ったら、日本に関する本を読めばいい。
日本についての知識を得ようと思ったら、日本を訪問して、経験するしかない。

経験参加内省によってのみ、知識は真の意味で身に付くということですね。

私は、これを聞いて、次のような解釈もできるのかなと思いました。

もしかしたら、「情報」か「知識」かというサブジェクトに着目する必要はないのかもしれない。むしろ、「知る」ということと「身につく」ということの違いなのかもしれない、と。

昔は、先に述べたように「知ろう」とするだけでも、それなりの努力が必要でした。つまり、そうまでしてその答えを知りたいのか?と(軽く)自問した上で、その情報を取りに行く情熱と覚悟があった(ちょっと大げさ)。だから、「知る」と「身につく」は案外、近距離に位置していたのかもしれません。しかしながら、現代は、あまりにも容易に「知る」ことができます。一方、「身につく、きわめる、マスターする」にはそれほどの近道が容易されているわけではありません。それでもそこに挑もうとする意志、もしくは好きだという気持ち、そのために努力する行為が知識獲得のための経験や参加になると考えます。だから、インターネット普及に伴う変化の一つとして、「知る」と「身につく」のレベルがどんどん乖離してきている、ということが言えそうです。「知る」はますますコモディティ化しているものの、「身につく」はほとんどコモディティ化していないのです。

では、「知る」ことと「身につく」ことの本質的な違いはあるのでしょうか? どんな難易度が高いものであっても、「調べられる」のであれば、極論としては「身につける」必要なんてないのでは? うーん、確かに難しいところですね。でも、私は少なくとも一つ、両者の違いについて思いつくことがあります。

それは、「未来を描く力」です。

「知る」レベルでは、過去の経験則を紐解くことはできても、未来を描けない、つまり、未知の状態に対応できない。
でも、「身につく」レベルであれば、高質で豊富な経験を元に、未知の状態に対応できる、そこが根本的に大きな違いだと思っています。そして、現代、この変化の大きな時代に必要とされているものこそ、まさに、この「未来を描く力」なのではないでしょうか。

写真:KDIスタジオにて交流会の様子

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