2009年4月29日水曜日

2階がなくなった!

先週から解体が始まった、古家。
今日行ってみたら、なんとご覧の通り、2階部分がすべてなくなっていました。



奥にあるのは敷地内の樹木、今まで日の当たりにくい場所にあったせいか、葉の色が少しくすんで見えます。きっとこれからたっぷりのお日様を浴びて、深い緑色に変わってゆくことでしょう。



ガレージの前にある丸太は、いずれも古家から丁寧に取り出された梁です。
実は、右から2番目の太い丸太(松)ですが、みらいのいえの大黒柱!として再利用される模様です。本日の楽居さん(工務店)、遠野未来さん(設計)との打合せで方向性が決まりました。それ以外の木もいくつか梁として使っていくことになりそうです。
この松、40年間も家を守り続けていたのに、切り口からは、まだ松ヤニがどんどん出てくるんです。切られてもなお、生き続けている。そういう実感があります。

古い家を壊して、新しい家をつくることの中にも、出来る限り部材を大事に使いたい。それも我慢して使うのではなく、より活き活きと輝くように使いたい。しかも、デザイン性にもとことんこだわる。それを理想と考え、がんばって行きたいと思います。

2009年4月25日土曜日

古家、ついに解体です!

4/23 みらいのいえ、敷地に建っていた古家の解体工事がスタートしました!

この古家は、ちょうど40年前に、前の前のオーナーが「民宿」をするために、母屋の隣に新築として建てあげたものだそうです。御近所のおじさんにお聞きしました。古家のすぐ東側には、樹齢百年を超えるケヤキの木があります。ケヤキはこの40年、静かにこの家を見守っていたのだと思います。私たち現代人の「時感」とはスケールが違いますね。

解体が無事に進むよう、三浦棟梁が古家のキワにお酒を振りまきます。


隣家に建材のクズが飛んで行かぬよう、シートを貼っています。


今朝の様子です。 雨はこの家が流す涙?

これは、屋根から下ろされた瓦です。


これは、みらいのいえでも再利用しようと考えている、古家の屋根裏にかかっていた曲がり梁です。


屋根を裏側から見た図。この板も再利用できるのでしょうか?


家に開けられた、大きな開口から、庭を見ているところ。
巨大なピクチャーフレームのようです。


長い間、この家の玄関前に鎮座していたポスト。何だか寂しげに見えます。


解体はまだ二日目ですが、あっという間に進んで行きそうな勢いです。

2009年4月23日木曜日

コンセプト1: もちこまない、もちださない

今回から3回にわたって、三浦「みらいのいえ」のコンセプトをご紹介したいと思います。

みらいのいえ1 「もちこまない、もちださない」

産業革命以降、企業の強さとはまさに、物質(製品)を作り出す効率=生産性という概念に支配されてきたといっても過言ではないでしょう。100年以上にもわたって、企業はその存亡をかけ、如何に安く、如何に早く、を競い合って成長してきました。そのおかげで私たち市民は、必要なモノは何でも手に入るし、その使いやすさも飛躍的に高まってきました。一方、その経済成長の過程はいくつかの副作用を引き起こしていました。それは、日本人が古くから大事にしてきた、モノを大事にするという振る舞い、すなわち、「もったいない」精神の長期的減退でした。私たちは徐々に、気づかぬうちに、「もっと新しいものが出たから、使えるけれども捨てるしかない。」あるいは、「どうせ次々に新しいものが出るのだから、長く使えるものよりも、格好がよくて、安いものを選ぶ。」という消費行動を取るようになっていきました。企業側もこの消費者の変化に「応える」べく、どんどん製品のライフサイクルを短くするオペレーションを取ってきたわけです。そして、そのことが結果的に、ゴミ問題や温暖化という形で社会問題として表出化されるまでにいたった。
でも今日、私たちはようやく、このモデルが決してサステナブル(持続可能)ではない、未来永劫続くものではないことに気づくことができました。考え方を大きく転換させなければいけないことに気づいたのです。

「住宅」という世界でも、まったく同様の変化と副作用が押し寄せています。いや、むしろ、住宅の世界はまだまだ工業化の真っただ中にいるといってもよいかもしれません。最近流行りの100年、200年住宅という新しい概念は結局、次々に、「丈夫で長持ちする」新しい建材を開発するために投資されてしまっています。
たんに「長く使える」ことと「サステナブル」であることの間には、大きな隔たりがある。寿命が長かろうが短かろうが、サステナブルでなければ、使い終わったものは「産業廃棄物」として、地球のゴミとなってしまうのですから。

そこで、「みらいのいえ」は 『みらい=サステナブル』にできるだけこだわった家づくりをすることを考えました。そこで選んだキーワードが、上記の「もちこまない、もちださない」です。

具体的に考えていることを例に示します。

1.建築資材をできるかぎり「もちこまない、もちださない」
 ・ 自然素材(自然に還る素材)の利用を最優先する
 ・ 完全再利用可能な材料の使用を優先する
 ・ 古家解体時に再利用可能な自然素材をできる限り活用し、産業廃棄物を出さない
(上記3点は、ゴミとして「持ち出さない」ための考え方)
 ・ 敷地にある材料の利用を最優先する
   (敷地の土、石、木など)
 ・ どうしても必要なものも、できるだけ近場から集める
   (海外ではなく、国産、できれば県産)
(上記2点は、新たなものを「持ち込まない」ための考え方) 

2.エネルギーをできるかぎり「もちこまない、もちださない」
 ・ 敷地が本来ポテンシャルとして持っているエネルギー利用を優先する
  (太陽光、風、地熱、雨、井戸・・・)
 ・ 雨水も安易に下水に流す(持ち出す)のではなく、エネルギーとして活用する

3.「ゴミ」をできるかぎりもちださない、「ゴミ」になるものをもちこまない
 ・ 自然のものであれば、ゴミはかならずエネルギーに代わる。
 ・ 自然ではないものは、ゴミになってしまうのでもちこまない(Re-use & Refuse)

4.でも、無理はしない。楽しみながら、少しずつ。

以上です。

イニシャルコストが大きくかかってしまったり、建築の現行の法規上の問題などがあり、完璧にはいかないと思います。また、現代人としての欲求やニーズをまったく無視して、「我慢」するようなことはしたくありません。 しぶとく、しつこく、したたかに、この思想をじりじりと推し進めていきたいと思っています。
どんな問題が起こってくるのか?一つひとつ対処していきたいと思います。

さてさて、まずは近々、このゴールデンウィークからようやく古家の解体がはじまります。どんなお宝が発掘されるでしょうか。楽しみです。

写真は、間もなく解体を待つ古家。どことなく、寂しげな表情に見えなくもない。。。

2009年4月22日水曜日

「知る」ことと「身につく」こととの間にあるギャップ

先日KDIは、米国KM(ナレッジ・マネジメント)界のグルといってよいでしょう、
ラリー・プルサック氏をお迎えしてのナレッジ交流会を開催しました。

天性のストーリーテラーらしく、大変示唆に富む、様々な話題を提供していただきましたが、その中から一つ、「情報と知識」について、私なりに気付きがありましたので、紹介いたします。

ラリーの話を抜粋して箇条書き:

1.近年、情報を入手(獲得)するためのトランザクション・コストは著しく低下した。そして、それによって今度は、知識を獲得するためのコストの高さが際立つようになった
2.知識とは、学ぶもの、身につけるもの、極めるもの、マスターするものであり、経験×参加×内省が必要である

いかがでしょうか?
1の前半は、比較的実感が伴うので分かりやすいのではないでしょうか。
たとえば、「1913年にノーベル平和賞を受賞したのは誰か?」という問いに対する答えを得るのにどれぐらいの時間がかかるか?それなりの情報リテラシーを持つ人であれば、10秒もあれば答えを導けます。ググるという表現が適切かもしれません。
でも20年前であれば、そうはいかなかった。家にある百科事典を調べたり、それがなければ図書館に出かけて行き、司書さんに、どういう本を調べれば分かりそうかを尋ねたりする必要がありました。そう、すくなくとも1時間〜3時間程度の時間がかかったはずです。インターネットの爆発的な普及と技術の進化によって、情報獲得のトランザクション・コストは飛躍的に低下しました。

つまり、世界中の誰もがほとんど同時に、同じ情報を入手できるようになってきたわけです。商売の世界も同様で、昔は情報の非対称性(つまり、自分は持っている情報を相手が持っていないという状態)を巧みに利用して、「儲けて」いた人がたくさんいたわけですが、現代はそれほど安易にはできなくなっています。これが現代の事実ですね。そうなると、差をもたらすものは何かというと、「知識」ということになるわけです。

ラリーは次のような例示を加えました。

日本についての情報を得ようと思ったら、日本に関する本を読めばいい。
日本についての知識を得ようと思ったら、日本を訪問して、経験するしかない。

経験参加内省によってのみ、知識は真の意味で身に付くということですね。

私は、これを聞いて、次のような解釈もできるのかなと思いました。

もしかしたら、「情報」か「知識」かというサブジェクトに着目する必要はないのかもしれない。むしろ、「知る」ということと「身につく」ということの違いなのかもしれない、と。

昔は、先に述べたように「知ろう」とするだけでも、それなりの努力が必要でした。つまり、そうまでしてその答えを知りたいのか?と(軽く)自問した上で、その情報を取りに行く情熱と覚悟があった(ちょっと大げさ)。だから、「知る」と「身につく」は案外、近距離に位置していたのかもしれません。しかしながら、現代は、あまりにも容易に「知る」ことができます。一方、「身につく、きわめる、マスターする」にはそれほどの近道が容易されているわけではありません。それでもそこに挑もうとする意志、もしくは好きだという気持ち、そのために努力する行為が知識獲得のための経験や参加になると考えます。だから、インターネット普及に伴う変化の一つとして、「知る」と「身につく」のレベルがどんどん乖離してきている、ということが言えそうです。「知る」はますますコモディティ化しているものの、「身につく」はほとんどコモディティ化していないのです。

では、「知る」ことと「身につく」ことの本質的な違いはあるのでしょうか? どんな難易度が高いものであっても、「調べられる」のであれば、極論としては「身につける」必要なんてないのでは? うーん、確かに難しいところですね。でも、私は少なくとも一つ、両者の違いについて思いつくことがあります。

それは、「未来を描く力」です。

「知る」レベルでは、過去の経験則を紐解くことはできても、未来を描けない、つまり、未知の状態に対応できない。
でも、「身につく」レベルであれば、高質で豊富な経験を元に、未知の状態に対応できる、そこが根本的に大きな違いだと思っています。そして、現代、この変化の大きな時代に必要とされているものこそ、まさに、この「未来を描く力」なのではないでしょうか。

写真:KDIスタジオにて交流会の様子

2009年4月20日月曜日

ホッとするプレート料理 ナツメグカフェ

三浦のローカルグルメについて紹介する第二弾。
ちなみにここで取り上げるお店はいずれも、観光客向けというよりは地元志向です。

今回は、私たちが今仮住まいをしている自宅から徒歩5分という近さにある、ナツメグカフェに行ってきました!

例によってわが家の特権(大家族)を乱用し、たった2回の訪問ですでに7種類のランチを食べてしまったのです。そしてわかったこと、それは、「外れがない」ことです。そう、どれもこれもおいしいのです。三浦人(「みゅうらー」と呼ぶ)にとって、マグロや地魚は当然欠かせません。もちろん大好きです。でもね、それでもやっぱり飽きるんですよ。お肉やパスタなんかが食べたくなります。そんなときに、ナツメグさんはいつも癒しの味を提供してくれます。

とくに私のおすすめは下のチキンプレート。息子が頼んだものでしたが、父親の武力行使により?!ちょこちょこ失敬してしまいました。。。

また、ベイクドチーズケーキ、バナナケーキなどの別腹系スイーツも豊富。優しい味を醸し出してくれます。

こちらのカフェは、時折ライブスペースにも変貌するとのこと、せっかくのご近所ですから、一度ライブに参加してみたいなと思っています。